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好奇心を満たす旅

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自分の本質。
それは知的好奇心を満たすことだった。

第一幕

去年の暮、僕は自分がADHDだと知った。それまでにとことん調べ、その後ADHDについてブログに書いた。更にその後、自分と同じ悩みを抱える人達のために自らが行動を起こそうという夢を抱いた。

でもADHDとしてADHDをなんとかしたいとか、そもそもなんか違う。確かに自分と同じ悩みをもった子供がいるなら僕の経験を聞かせるくらいはできる。

でもそれが何だというのだ。

僕は成功者でも何でもない。だから「TEDに登壇したい」という飛躍的手段に頼ろうとした。自分が優れたアイデアを示すことさえできれば、素人でも権威のある人物と同じステージに立てる可能性がある。そしてその記録はネットに残り、後へ続く者への勇気となる。本気でそう思った。

もちろん話すべきアイデアはある。簡単に言うなら「発達障害が遺伝で先天的なものなら、それは精神医学の範疇ではない」ということ。今回発達障害という名前が無くなったことで、悪しき言霊を生み出したのがどこなのかを突き止めることができた。医学を真に受けすぎて、自ら呪いをかけてしまった人は多いはず。医学が悪とまでは言わないが、間違えることだってある。

もちろんそんな単純な話じゃないし、僕は夢を諦めたわけじゃない。でも、まずは自分の人生を自分らしく生き、その上で強がりではなく、精神面でも経済面でも豊かな生活を築くこと。これが前提条件だ。それが出来て、初めて語ることが出来ることもある。そもそも自身が強く生きられずに、夢は叶いっこない。説得力が無い。

第二幕

昔の僕は、自分が何も続かないことに苛立っていた。自分を屑だと思った。自分の好きなことが続かない、続かないから自分のステージを変える。そうすることで「自分はその分野で負けたわけではないんだ」と自分に言い聞かせた。そうすることで自分を肯定していた。

でも本当は不安でいっぱいだった。華々しいキャリアもなく、学歴もなく、田舎出身であり、全てにコンプレックスを持っていた。そしてそれを隠すように自分は落第者であると開き直った。

全ては自分の保身のためだ。弱みを他人に知られたくなかった。

そして自分がそういう種類の人間だと分かった後、長年の不安が嘘のように解消された(知るという点に関しては、精神医学の功績は大きい)が、他の不安が持ち上がった。どうすれば自分の特性を活かすことができるのか。どうすれば数の暴力をものともせず強く生きられるのか。どうすれば自分なりの方法で、ゴリアテに勝つことができるのか。最近はずっとそんなことばかり考えていた。

自分が注意散漫な人間と分かって安堵はしたものの、本当は何が好きな人間で、何が得意な人間なのか、逆に分からなくなってしまっていた。

文章を書くことが好きなのか、ただ思考することが好きなのか、問題解決を喜びとしているのか、音楽が好きなのか、美しいものが好きなのか、テクノロジーが好きなのか、絵を描くことが好きなのか、デザインが好きなのか、モノづくりが好きなのか。

何故か断言出来ない。

好きなことは多いし、興味の対象なら無数にある。夢や野望もある。でも何故か、将来のビジョンとしてハッキリイメージ出来ない。

一本、筋が通らない。
焦る。苛立つ。考える。

家族のことが何よりも大切なのは確かだ。「家族を守るために僕には何ができるのか」これが僕の原動力だ。ただ、家族への想い、家族への愛がどんなに強くても、それが心理的な面以外で自分たちを豊かにしてくれるのかどうかは分からない。

僕は、自分の「強み」を探って探って探りまくった。

第三幕

自分は昔から夢の無い人間ではなかった。だから「自分探しの旅」なんておかしなことを言う人も居たもんだと思っていたが、まさかこの歳になって自分の中にこんなにもダイブし続けることになるとは思わかなった。

人生は分からないものだ。

そして潜っても潜っても、自分の本心がわからなくなるばかりで、どこか空虚だった。

ただこれまでのことで、自分が自分を偽っていることには確信があった。人に非難され、人の顔色をうかがい、過去の功績に縋り、あらゆる責任を逃れ、のらりくらりと生きてきた。

それは、自分さえ分からなくなるほどに自分を変化させてしまっていた。

そして、自分はモノのカタチに対する拘りが強いということがなんとなくわかってきた。自分が人の下で働くことに向いていないことが分かってきた。自分はデジタル大好き人間だけど、実はアナログ向きであることも発見した。

それでも自分の強みはわからない。

僕は本を読み漁った。ビジネスマンが書いたADHDの名著を読んだ。敬遠していた啓発書の類も読んだ。マーケティングに関する本も読んだ。自分の強みを探る本を読んだ。心理学的な本も読んだ。脳科学的な本も読んだ。哲学的な本も読んだ。

どんな種類の本を読んでも、自分の中の信念を根底から覆すほどの変化はなかった。でも自分の中の判然としなかった価値観が、予想外の形で強固になったりした。

そして気が付いた。

僕が好きなモノを好きだと思う気持ちはどれも本当で、嘘偽りはない。それは本質を見抜くことを難しくしていた。そもそも好き嫌いで自分のすべきことが定まると思っていた考えこそが浅かったのだ。

未知への旅

『未知へのワクワク』これこそが僕の本質。何かを探っている時こそが、僕の最もイキイキできるときなんだ。

なんだかんだと御託を並べてみても、「好奇心旺盛」が求めていた答だなんて、意外と自分は普通だったんだと思った。

デザインを考えるとき僕が最も高揚するのは、あらゆる組み合わせを探り、それが自分の価値観と合致した時だ。デザインそのものじゃない。絵を描くとき最も高揚するのは、自分の中のアイデアを上手くカタチに(出力)出来た時だ。上手く描くことじゃない。

自分の中の知識と価値観が噛み合い、自分を納得させられた時、僕は何より高揚するんだ。

僕は本を読むことで自分探しをしたが、そもそも本を読むこと、知的好奇心を満たすこと自体が自分にとっての真の喜びだったのだ。だから僕は、インプット過多でも疲れたりしない。

そして本を読み漁っていて気付いたのは、自分にとっての読書メモが逆効果であるということだった。自分は何かを考えるときや本を読むとき、必ず思考を映像的に思い描く。だから途中でメモをとる(言語化する)と気が散り、逆に頭に入らなくなる。これは副産物としては良い発見だった。

知識が増え、出来ることが多くなれば、その分自分の手札が増え、思考の組み合わせというゲームが楽しくなる。やりたいことが次から次へと出てくるのはそのためだ。そして本を読んだり調べ物をしだすと止まらなくなるのは、知的好奇心を満たしたいという欲求に対するリミッターが無いからだ。

自分のおもちゃは全ては自分で作っていた幼少期も、机の上がガンプラで埋め尽くされていた小学生時代も、ロゴデザインが全校生徒の中から3年連続で選ばれたことに歓喜した中学時代も、「自分で作る」要素や「自由度」が高いゲームを好んでプレイした高校時代も、僕のやることなすこと全て「発見と組み合わせ」を楽しむためだったんだと、今ならハッキリ分かる。

新しい事を始めるために「今やっていること」を辞め続けて来た。いままではこの過去を直視出来ずにいた。

知っていること、知ってしまったことへの敬意や熱意が無くなるわけではないが、別の興味がすぐ僕の心を満たすので、好きなことは増える一方で、どれもこれも中途半端なままになる。

そして、それをいちいち気にしていたのが最近までの僕だ。これは自分の足を引っ張る行為だった。

「本能的かつ衝動的に、未知なるワクワクへ向かう」これが僕という人間の本質なら、これに抗うことは難しい。これが知れただけでも、頭を捻った甲斐はあった。

悩みに悩んで導き出した自らの特性を、どう活かせるのか、どう活かすべきなのかはまだまだ全然わからない。

これは大きな課題であり、結局振り出しに戻っただけとも言える。でもこれが同じような悩みを抱える人達の共通の特性なら、これを活かす事こそが僕の夢への一歩となる……はずだ。

結局自分探しなんてこんなもんだ。人生なんてこんなもんだ。でも頭はスッキリした。ウジウジ考えるのはやめて、次は行動に移すときだ。

道は険しいが、僕には愛する家族がある。だからどんな回り道だろうと、どんな険しい道だろうと、負ける気がしない。

さぁ、切符は手に入れた。
また、未知への旅を始めよう。


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